RADWIMPS「HINOMARU」は何が問題だったのか
ここ数日話題になっている「HINOMARU」炎上騒動が、今の日本(もしくは昔からの日本?)にとって、たいへんだいじなことを浮き彫りにしているように思えたので、考えたことをまとめます。
はじめに
まず、「HINOMARU」炎上騒動の経緯を簡単に。
「HINOMARU」は先週の水曜日に発売されたシングル「カタルシス」のカップリング曲として登場しました。
その歌詞は一部からたいへん軍国主義的(愛国的?)だとされ、RADWIMPSが中高生に大人気の国民的バンドだということもあって、ネット上で色々な意見が飛び交いました。
「気高きこの御国の御霊」「日出づる国」「受け継がれし歴史」といったワードが「軍歌っぽい」と特に批判を浴びているようです。
これに対して野田洋次郎さんは、
「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました。」
「まっすぐ皆さんに届きますように。」
とインスタグラムでコメント。
しかしそのコメントに「思想がないほうが問題だ」と批判が相次ぎさらに炎上し、そして昨日、野田洋次郎さんはツイッター上で
「軍歌だという意図はなかった」
「攻撃的な思想もない」
「不快な思いをさせてしまったのが悲しい」
と謝罪しました。
4通りの主張
ネット上で展開された様々な意見・主張を筆者が見るに、それらは主に4通りの主張に大きくわけることができるように思います。
①「野田洋次郎=右翼」派
野田洋次郎は右翼であるので批判されるべきだ、という主張です。
主にネット左翼によって構成されているように見えます。
彼らは、野田洋次郎が私は無思想ですと自称しているが、それは嘘であり(無自覚であり)本当は右翼であるはずだ、と時に証拠を挙げながら指摘しています。
②「危険視」派
RADWIMPSのような影響力のあるバンドが、軍国主義を思わせる曲を発表することはすこし危険である、という主張です。
彼らは、芸術がナショナリズムの盛り上げに利用された戦前を例に出し、「ちょっと待った」をかけています。
③「擁護」派
野田洋次郎が特定の思想に基づいて歌詞を書いていないのだから、批判してはいけないという主張です。
主にアンチ・ネット左翼やネット右翼によって構成されているように見えます。
彼らは「今回の『HINOMARU』炎上騒動はネット左翼の過剰反応である」とした意見でほぼ一致しています。
④「野田洋次郎」派
野田洋次郎の考え方をだいたいにおいて肯定するファンたちです。
主に中高生によって構成されているように見えます。
彼らは「(③の人々と同じく)野田さんが無思想なのだから、歌詞も無思想である」「音楽に政治を持ち込まないでほしい」「そもそもなぜ自分の生まれた国を誇ってはいけないのか」「嫌いな人は聴かなくていい、批判しないでほしい」といった意見を持っています。
(この4通りの他にも「そもそも文語体の文法が間違っている」という意見が支持を集めていますが、ここでは割愛させてもらいます。)
かなり大雑把ですが、こうして整理してみると、どんな人たちが何を問題にしているのかが見えやすくなると思います。
そこで、これらを前提にして、
「HINOMARU」問題は、本当は何が問題だったのか、はっきりさせます。
ネトウヨvsネトサヨ対決の構図
前置きとして、①と③の関係に触れます。
これは簡単で、①の主張のアンチテーゼとして③の主張が、もしくは、③の主張のアンチテーゼとして①の主張がなされていて、いすれにしてもネトウヨvsネトサヨ的な(いつも通りの)対決関係になっていることがうかがえます。
雑に言えば、
「野田洋次郎が無思想なのだから、歌詞も無思想である」とした主張に、
「野田洋次郎が右翼であることを証明できれば、歌詞が右翼的だと論破できる」と対決しているということです。
①の人々は、
右翼系雑誌『國の防人』編集部のツイート
「(RADWIMPSの)バンドメンバーの親族が本誌執筆者です。」
を発見し、「答え合わせは済んだ!(=野田洋次郎は右翼だった)」と喜んでいます。
しかし、そんなことは全く重要ではなく、的外れで、反論になっていません。
例えば、「看護婦」という言葉があります。
この言葉は少し前に「差別的だ」と話題になりました。「男性は看護婦になれないのか、看護は女性がするものなのか」ということです。
現在の公共の場ではだいたいの場合「看護師」という言葉が使われていますが、日常会話では未だに「看護婦さん」と使う人もいます。
このとき、「看護婦さん」と使った人が差別的な感情を自覚していなくとも、その言葉遣いをきいた人が差別的だと感じれば、
それは差別になりうるのだ、と言えます。
同じことです。
野田洋次郎さんが特定の思想に基づかずに書いた歌詞が、イデオロギーを呼び込むことは十分にありうる。いや、呼び込んだのが今回の「HINOMARU」です。
彼が右翼だとかノンポリだとか、そんなことは関係ないし、証明する必要もない。
「書かれた歌詞を右翼的だと感じる人がいた」ということなのです。
①のネトサヨの人たちは、野田洋次郎さんが右翼であることを証明しようとしました。
そのことがすでに「野田洋次郎さんが無思想なのだから、歌詞も無思想である」という意見に賛成であることを逆説的に示しています。
ネトウヨが問題にしていることも、ネトサヨが問題にしていることも、
「書いた人と書かれたものを同一視する」という点から、実は前提として間違っているのです。
「HINOMARU」が浮き彫りにしたもの
筆者が展開したいのは、ネトサヨ批判ではありません。
「HINOMARU」問題は、本当は何が問題だったのか、ということです。
そこで浮かび上がってくるのが、
筆者が「野田洋次郎」派と呼んだ④の人々です。
彼ら=ファンたちがとった態度を振り返ります。
a.「野田さんが無思想なのだから、歌詞も無思想だ」
b.「音楽に政治を持ち込まないでほしい」
c.「そもそもなぜ自分の国を誇ってはいけないのか」
d.「嫌いな人は聴かなくていい、批判しないでほしい」
すべてに共通することがわかると思います。
それは「他者/外部の不在」です。自分たちの内輪の外にいる人たちを見てませんよ、ということです。
aからは「自分とちがった意見の人が聴くかもしれない」という想定が、
bからは「音楽の外側からの解釈」という可能性が、
cからは「この誇り方(軍歌にきこえうる歌詞)が絶対なのか」という自問が、
それぞれ抜け落ちています。
そして、彼らの思想をいちばん「まっすぐ」表した言説が、
「嫌いな人は聴かなくていい、批判しないでほしい」
です。
「HINOMARU」炎上騒動が浮き彫りにしたのは、
野田洋次郎が右翼だったことではなくて、
「他者/外部の不在」、
つまり、「批評の不在」です。
ファンたちはRADWIMPSの歌、「思想のないという思想」をもった野田洋次郎の作る楽曲を愛して集まり、サークル的なものとして組織されてきました。
それはもしかすると「学校のクラス」「道徳の時間」「解が一つしかない国語の問題」に似たものだったのかもしれません。
そのサークルのなかにコミュニケーションはもちろんあって、多少の摩擦もあっただろうと思いますが、そこに「他者」はいなかった。
なぜならば「野田洋次郎を否定しない」という規律でゆるやかにまとめあげられていたからです。
そんなサークルが「他者」に出会い、「他者」から閉じた。
それが今回の「HINOMARU」炎上騒動だったのだと思います。
そしてここで問題にしていることは、言うまでもなく、
RADWIMPSのファンたちだけの問題ではありません。
それはもちろんネトウヨ・ネトサヨたちの問題でもあり、
RADWIMPSのファンたち≒中高生たちを育んだ土壌=教育制度、
ひいては日本の「大人たち」の問題になります。
奇妙な偶然にも、あるいは必然にも、戦後に発表された文章に今回の件で参照されるべきものがあります。
伊丹万作というひとの『戦争責任者の問題』という文章です。
彼は戦後「映画界の戦争責任者を指摘し、追放するべきだ」と糾弾する意見をきき、この文章を書きました。
(短い文章なので5分程で読めます。読んでみてください。)
一部引用します。
だますものだけでは戦争は起らない、だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(…)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
(中略)
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
ナショナリズムを発揚する映画を喜んで観ていた人々は、戦後になると手のひらを返して「だまされた、だまされた」とブーイングしました。
しかしそれは、本当に監督たちだけの責任なのか。
「だまされた」民衆に問題はなかったのか。
そう伊丹は考えます。
今回の問題において、野田洋次郎が「だました」だとか、これが戦争に繋がるだとかを主張したいのではありません。
この文章に書かれている民衆の様子が、今回の件で人々がとった様子に、ひどく似ていると言いたいだけです。
「HINOMARU」に似た愛国歌をノートに書き写し何度も復唱して熱狂していた戦前の子どもたちは、みんな戦場に送られて殺された。と②「危険視」派の方が指摘していました。
戦前熱狂している子どもたちに「だまされているよ」と教える「大人」はいませんでした。
「大人」とはつまり、「他者」です。
情報の行き来が限定的だった戦前には「他者」と出会うことが難しかったかもしれない。
でもインターネットの普及した現代ならばどうでしょうか。
筆者が強調したいことは「他者/外部の再想定」が重要だということです。
それは批判、批評、さらに広げるならば教養と呼ばれるかもしれません。
「他の人を思いやりましょう」という道徳の時間をやるつもりなく、
そうではなく、
「他者がいるということ、また、自分も他者であること」を理解し、
「他者」とコミュニケーションしていくこと、
サークルの外に出てゆくこと、あるいは行き来すること
が大事なのだと言いたい。
集団 対 集団 (群れ 対 群れ、共同体 対 共同体、国家 対 国家、と言い換えるほうがしっくりくる人もいるかもしれません)のコミュニケーションのあり方を問い直すこと。
そして常にアップデートしていくこと。
「他者の不在」によって様々なよくないこと(最近取り上げられている不祥事を思い出してください)が引き起こされる昨今の日本で、特に重要なことではないでしょうか。
さいごに
「HINOMARU」はファンたちの思想=「他者/外部の不在」を暴き出すことで、
歌詞や楽曲よりもむしろ、構造の上で「ニッポン」的なものを体現するにいたったと論じることができます。
しかし、ここで忘れてはいけないのは、野田洋次郎さんが謝罪をしたということです。
野田さんはおそらく、今回の炎上騒動を通して、自分が「他者」と出会ったことに気づいた。そして、コミュニケーションを取ろうとサークルの枠から一歩「外部へ」踏み出しました。
ファンたちはきっと「野田さんが謝る必要なんてない」「左翼が悪いんだよ」とこれからも言いたがるでしょう。ネトサヨたちも「野田を倒した」と喜ぶでしょう。
ただ、私は「野田洋次郎」派のなかの、真の「野田洋次郎」派たちが、
彼のあとに続いてサークルから飛び出し、「他者」と再会することを願ってやみません。
そうした越境者たちが続々と現れたときに、野田洋次郎さんは自身の願う「この世界のプラスになるエネルギー」になれたと胸を張ることができるのだろうと思います。
野田洋次郎さんのエネルギーが、ただまっすぐに届きますように。
以上で終わります。読んでいただいてありがとうございました。